
被災地訪問 南三陸町~志津川地区
|Posted:2012/09/01 00:56|Category : 震災被災地|
宮城県の沿岸北部にある南三陸(みなみさんりく)町。
東日本大震災の津波で、壊滅的な被害が出た町のひとつで、震災時の報道で
有名になった町です。
テレビで見た、市街地を丸呑みにした津波の映像は、衝撃でした・・・。
特に、津波が町を襲う直前まで、防災無線で町民に避難を呼び掛け続けて殉職
した女性職員は「天使の声」として有名になりました。
この放送を流していた防災対策庁舎は、メモリアルスポットとして有名になり、
今でも多くの方が訪れますが、解体される事が決定したとの報道がありました。
解体される前に。。。と思い、南三陸町を訪問しました。

内陸の登米市から、国道398号線を通って南三陸町へ向かいます。
水界トンネルを抜けて山を越えると、南三陸町志津川地区に入ります。
※南三陸町は、平成の大合併で、志津川町と歌津町が合併してできた町です。
今回は、中心街のあった旧志津川町の地区を訪ねます。

震災時、沿岸沿いを縦貫する、国道45号線が津波で寸断された為、
この国道398号線が、唯一の救援ルートとなりました。
(現在は、国道45号線は全線通行できます)
海はまだ見えないのですが・・・周りの杉林が枯れて茶色に変色しています。
これは、塩害により枯れたものです。
要するに、この様な山間部まで津波が押し寄せた証拠です。
南三陸町では、津波が川を伝って4kmも遡ったという事です。

まずは、高台にある志津川高校にやって来ました。
高校がある「高台」は貴重な存在であり・・・震災後は大規模な避難所となり、
現在は、校庭の半分は「仮設住宅」として利用されています。

報道やYouTubeの動画で有名となった、南三陸町の志津川市街地を丸呑みに
する津波(高さ約15mと言われている)が撮影された場所が、志津川高校です。
校庭の一番南側の斜面からは、映像と同じ光景が広がっていました・・・。
まずは、漁港の方向の眺望です。。。
建物は・・・コンクリート製の大きな建物しか残っていません。

町の中心部の眺望です。
手前の築堤はJR気仙沼線で、志津川駅がありました。
JR気仙沼線の奥側には家屋が立ち並んでいましたが・・・全て瓦礫となり、
撤去され、雑草が生えてきて一面緑色に見えます。
まるで、人工物が無くなり自然に還っているかの様です。。。

国道398号線を、市街地へ入って行きます。
瓦礫は片付けられ、建物は土台のコンクリートのみ残っています。
そこに雑草が覆いはじめていました。
電柱や電線、信号は、震災後に再び設置されたものです。
右奥に、小さく防災対策庁舎が見えて来ました。

防災対策庁舎に到着しました。
周りに建物は無いので、遠くからでも見えて迷わずに到着できました。
まだ解体されずに残っていました。。。

何も無くなった町に、赤い鉄骨だけを残す3階建ての防災対策庁舎。
津波の激しさと被害の大きさを物語る施設として、繰り返し報道され有名に
なりました。
津波の際は、屋上に避難した町職員ら約30名のうち、助かったのはわずか
10名という悲劇の現場であり、防災無線「天使の声」の女性職員も犠牲と
なってしまいました・・・。
津波は、3階建ての建物の天井より、更に2m上まで達しました。
驚異的な水位です。
庁舎の前は、広い駐車場の様になっており、目の前に車を駐車できます。
混んでいる訳ではありませんが、継ぎ目なしに車やバスが来て、多くの方が
見学し祈りを捧げて行きます。。。

雑草に覆われていますが、建物の土台が地面に並んでいる様子が見えます。
震災前は、建物が立ち並んでいた様子が伺えます。
奥では、75人の死者・不明者を出した公立志津川病院の、5階建ての大きな
建物が解体中でした・・・。

海岸沿いの志津川漁港です。
高さ4m程の、頑丈なコンクリート防潮堤が、ズタズタに破壊されていました・・・。
津波の破壊力は凄いですね・・・。
奥には、瓦礫が集積された山ができていました。

港の防波堤から、市街地を望みます。
瓦礫は撤去されたとは言え、港付近の地面は痛々しい状態でした。

南三陸町の中心部である志津川を含め、津波を被った地域は、今後の
土地利用方法が定まっておらず、現在は建物を建築できません(建築
許可が下りません)。
電気は暫定的に整備されましたが、水道やガスは復旧されていません。
そんな中でも、町の中心部では、プレハブで営業を再開する店が出てきて
います^^
志津川高校のふもとにある「サンタカフェ」と、その他の店。
志津川高校の避難所で、世話を行った人々が開いたカフェです。
今では、志津川の名物スポットとなり、多くの方が立ち寄ります。

プレハブ小屋で営業するコンビニです。
外見とは対照的に、店内は普通の店舗と変わらない様子にビックリしました。

プレハブ小屋で営業するガソリンスタンド。
車が無いと移動が厳しい田舎では、ガソリンスタンドは生命線です。

自分が三陸に来たのは、震災前の2011年1月に、仕事で南三陸町志津川から
気仙沼市まで、国道45号線を北上して以来です。
その変わり果てた風景に・・・TVで沢山見てきたとはいえ・・・驚きました。
東日本大震災から約1年半が経ちましたが、津波の爪痕は想像以上であり、
神妙な気持ちとなりました。
それと同時に、道路が綺麗になり、電気が通ってプレハブの店舗が増えて
来たり、それにより暗闇だった町に明かりが灯る様になり。。。
状況は日々進歩している様子も見る事ができました。
【参考】
2012年7月31日時点での南三陸町の被害状況
・死者数の合計:610名
・行方不明者数:238名
・住宅、建物被害(全壊数+半壊数):3316戸
平成23年2月末における、南三陸町の人口と世帯数
人 口:17,666名
世帯数:5,362世帯
> 備蓄のススメ 東日本大震災の被災経験より準備すべきものを紹介
志津川湾沿いにある「南三陸 ホテル観洋」
三陸海岸で唯一の天然温泉に入れます。
自分も一度宿泊した事がありますが、全室が
オーシャンビューで、新鮮な魚介類を堪能!
太平洋に隣接する露天風呂は最高でした!
震災後は避難所として開放されていましたが、
現在は通常営業に戻っていますので、安心して
宿泊できます。
東日本大震災の津波で、壊滅的な被害が出た町のひとつで、震災時の報道で
有名になった町です。
テレビで見た、市街地を丸呑みにした津波の映像は、衝撃でした・・・。
特に、津波が町を襲う直前まで、防災無線で町民に避難を呼び掛け続けて殉職
した女性職員は「天使の声」として有名になりました。
この放送を流していた防災対策庁舎は、メモリアルスポットとして有名になり、
今でも多くの方が訪れますが、解体される事が決定したとの報道がありました。
解体される前に。。。と思い、南三陸町を訪問しました。

内陸の登米市から、国道398号線を通って南三陸町へ向かいます。
水界トンネルを抜けて山を越えると、南三陸町志津川地区に入ります。
※南三陸町は、平成の大合併で、志津川町と歌津町が合併してできた町です。
今回は、中心街のあった旧志津川町の地区を訪ねます。

震災時、沿岸沿いを縦貫する、国道45号線が津波で寸断された為、
この国道398号線が、唯一の救援ルートとなりました。
(現在は、国道45号線は全線通行できます)
海はまだ見えないのですが・・・周りの杉林が枯れて茶色に変色しています。
これは、塩害により枯れたものです。
要するに、この様な山間部まで津波が押し寄せた証拠です。
南三陸町では、津波が川を伝って4kmも遡ったという事です。

まずは、高台にある志津川高校にやって来ました。
高校がある「高台」は貴重な存在であり・・・震災後は大規模な避難所となり、
現在は、校庭の半分は「仮設住宅」として利用されています。

報道やYouTubeの動画で有名となった、南三陸町の志津川市街地を丸呑みに
する津波(高さ約15mと言われている)が撮影された場所が、志津川高校です。
校庭の一番南側の斜面からは、映像と同じ光景が広がっていました・・・。
まずは、漁港の方向の眺望です。。。
建物は・・・コンクリート製の大きな建物しか残っていません。

町の中心部の眺望です。
手前の築堤はJR気仙沼線で、志津川駅がありました。
JR気仙沼線の奥側には家屋が立ち並んでいましたが・・・全て瓦礫となり、
撤去され、雑草が生えてきて一面緑色に見えます。
まるで、人工物が無くなり自然に還っているかの様です。。。

国道398号線を、市街地へ入って行きます。
瓦礫は片付けられ、建物は土台のコンクリートのみ残っています。
そこに雑草が覆いはじめていました。
電柱や電線、信号は、震災後に再び設置されたものです。
右奥に、小さく防災対策庁舎が見えて来ました。

防災対策庁舎に到着しました。
周りに建物は無いので、遠くからでも見えて迷わずに到着できました。
まだ解体されずに残っていました。。。

何も無くなった町に、赤い鉄骨だけを残す3階建ての防災対策庁舎。
津波の激しさと被害の大きさを物語る施設として、繰り返し報道され有名に
なりました。
津波の際は、屋上に避難した町職員ら約30名のうち、助かったのはわずか
10名という悲劇の現場であり、防災無線「天使の声」の女性職員も犠牲と
なってしまいました・・・。
津波は、3階建ての建物の天井より、更に2m上まで達しました。
驚異的な水位です。
庁舎の前は、広い駐車場の様になっており、目の前に車を駐車できます。
混んでいる訳ではありませんが、継ぎ目なしに車やバスが来て、多くの方が
見学し祈りを捧げて行きます。。。

雑草に覆われていますが、建物の土台が地面に並んでいる様子が見えます。
震災前は、建物が立ち並んでいた様子が伺えます。
奥では、75人の死者・不明者を出した公立志津川病院の、5階建ての大きな
建物が解体中でした・・・。

海岸沿いの志津川漁港です。
高さ4m程の、頑丈なコンクリート防潮堤が、ズタズタに破壊されていました・・・。
津波の破壊力は凄いですね・・・。
奥には、瓦礫が集積された山ができていました。

港の防波堤から、市街地を望みます。
瓦礫は撤去されたとは言え、港付近の地面は痛々しい状態でした。

南三陸町の中心部である志津川を含め、津波を被った地域は、今後の
土地利用方法が定まっておらず、現在は建物を建築できません(建築
許可が下りません)。
電気は暫定的に整備されましたが、水道やガスは復旧されていません。
そんな中でも、町の中心部では、プレハブで営業を再開する店が出てきて
います^^
志津川高校のふもとにある「サンタカフェ」と、その他の店。
志津川高校の避難所で、世話を行った人々が開いたカフェです。
今では、志津川の名物スポットとなり、多くの方が立ち寄ります。

プレハブ小屋で営業するコンビニです。
外見とは対照的に、店内は普通の店舗と変わらない様子にビックリしました。

プレハブ小屋で営業するガソリンスタンド。
車が無いと移動が厳しい田舎では、ガソリンスタンドは生命線です。

自分が三陸に来たのは、震災前の2011年1月に、仕事で南三陸町志津川から
気仙沼市まで、国道45号線を北上して以来です。
その変わり果てた風景に・・・TVで沢山見てきたとはいえ・・・驚きました。
東日本大震災から約1年半が経ちましたが、津波の爪痕は想像以上であり、
神妙な気持ちとなりました。
それと同時に、道路が綺麗になり、電気が通ってプレハブの店舗が増えて
来たり、それにより暗闇だった町に明かりが灯る様になり。。。
状況は日々進歩している様子も見る事ができました。
【参考】
2012年7月31日時点での南三陸町の被害状況
・死者数の合計:610名
・行方不明者数:238名
・住宅、建物被害(全壊数+半壊数):3316戸
平成23年2月末における、南三陸町の人口と世帯数
人 口:17,666名
世帯数:5,362世帯
> 備蓄のススメ 東日本大震災の被災経験より準備すべきものを紹介
志津川湾沿いにある「南三陸 ホテル観洋」
三陸海岸で唯一の天然温泉に入れます。
自分も一度宿泊した事がありますが、全室が
オーシャンビューで、新鮮な魚介類を堪能!
太平洋に隣接する露天風呂は最高でした!
震災後は避難所として開放されていましたが、
現在は通常営業に戻っていますので、安心して
宿泊できます。
スポンサーサイト
